年収の壁と働き控えの実態
30秒でわかる、この記事のこと
何が起きている?
所得税がかかり始める「年収の壁」は引き上げられましたが、社会保険の「130万円の壁」はそのまま残っています。
なぜ気になる?
もっと働きたい人が、保険料の自己負担を避けるために働く時間を減らすことがあるからです。
身近にどう関係する?
人手不足なのに働き手が増えにくく、職場にも家計にも、じわじわ影響が出ます。
「制度のせいで、働きたくても働けない」という話です
税理士として長年、小さな会社の経営者や個人事業主と向き合ってきました。
その中で、何度も耳にする悩みがあります。
「うちのパートさん、もう少し働いてほしいんだけど、壁があるって言って増やしてくれないんだよね」
「本人は働く気があるのに、制度の都合でシフトを増やせないって、おかしくないですか」
これは、特別な会社の話ではありません。
スーパー、飲食店、介護施設、事務所、製造業。
業種を問わず、同じような声を聞きます。
今回の記事は、そういう現場の実感から書いています。
制度の話は難しく聞こえますが、要するに言いたいことは一つです。
「所得税の壁が下がっても、社会保険の壁が残っている。だから、まだ働き控えが起きている」
それだけです。
ただ、そこには「第3号被保険者」という、もう少し根の深い問題も絡んでいます。
順番に説明します。
そもそも「年収の壁」って何?
壁とは「ここを超えると負担が増える境目」のこと
年収の壁とは、ある収入額を超えた瞬間に、税金や社会保険料の負担が変わる境目のことです。
たとえば、時給が上がって収入が増えた。
それ自体はうれしいことです。
でも、ある金額を超えると、社会保険料を自分で払わなければならなくなる。
そこで多くの人が考えます。
「少し多く働いても、手取りがあまり増えないなら、今のままでいいか」
手取りとは、給料から税金や保険料が引かれたあと、実際に手元に残るお金のことです。
スーパーの「割引切れ」に似ています
これは、スーパーでまとめ買い割引を使っているときに似ています。
「あと1個買うと割引が外れます」と言われたら、買うのをやめる人がいる。
本当はもう1個ほしい。
でも損に見えるから、やめる。
年収の壁でも、まったく同じ心理が働きます。
今回起きていること:税金の壁は動いた、でも社会保険の壁は残った
「103万円の壁」が変わった
最近の制度改正で、所得税がかかり始める金額が引き上げられました。
以前は「103万円を超えると所得税がかかる」と言われていたため、年収103万円に抑えようとするパートの方が多くいました。
これが見直されたことで、もう少し働いても税金の面では影響が小さくなった、という変化があります。
でも「130万円の壁」は残っている
一方、社会保険の扶養に関する「130万円の壁」は、そのままです。
年収が130万円を超えると、夫(または妻)の扶養から外れ、自分で健康保険料や年金保険料を払う必要が生じます。
その金額は、月に数万円規模になることもあります。
車の運転にたとえると、前にあった赤信号が青になった。
進める距離は伸びた。
でも、少し先にまた赤信号がある。
止まる場所が変わっただけで、止まること自体はなくなっていない。
それが今の状況です。
小さな会社では、どんなことが起きているか
事例1:飲食店の店長と、ベテランパートさんの話
ある飲食店の経営者から、こんな相談を受けたことがあります。
「ランチとディナーの間の時間帯に、どうしても人が足りない。お客さんは来てくれているのに、スタッフが回らない」
そこでベテランのパートさんに声をかけました。
「来月から少しシフトを増やせませんか」
返ってきた答えは、こうでした。
「入りたいのですが、もう少し増やすと130万円を超えてしまいそうで。夫の扶養から外れると、保険料が自分にかかってきますよね。そうなると、増えた分がほとんど消えてしまう気がして……」
この方は、仕事が嫌いなわけではありません。
職場のこともよくわかっているベテランです。
でも、制度の境目を目の前にして、足が止まっています。
経営者としては、「給料を増やしてあげれば解決するのか」と思いたいところですが、そう単純ではありません。
扶養の問題は、本人の手取りだけでなく、家族全体の保険や税の計算に絡んでくるからです。
事例2:介護施設の採用担当と、求人の壁
別の相談は、小規模な介護施設からでした。
「求人を出しているのに応募が来ない。来ても、『130万円以内でしか働けない』という方ばかり。週3日・短時間のポジションは埋まるけど、もう少し入ってほしいポジションには人が来ない」
介護の現場は、慢性的な人手不足です。
資格を持った方が「扶養の範囲内で」という条件でしか動けないのは、施設にとっても本人にとっても、もったいないことです。
このように、「本人が働く気持ちを持っている」「職場も求めている」なのに、制度の都合でかみ合わないという状況が、小さな会社ほど深刻に起きています。
「社会保険に入ること自体は悪いことではない」という話も大切です
ここで一度立ち止まります。
社会保険に入ることを、単純に「損」と考えるのは、少し違います。
会社員として厚生年金に加入すると、将来もらえる年金が増える可能性があります。
健康保険も手厚くなります。
税理士として正直に言えば、「130万円の壁を超えると損」と一概には言えません。
長い目で見ると、社会保険に入ることが自分の将来にとってプラスになるケースも多い。
ただ、問題なのは「壁の超え方」が急すぎることです。
130万円を1円でも超えると、急に負担が跳ね上がる。
この「崖」のような構造が、人々を過度に慎重にさせています。
もし負担の増え方が緩やかなら、「少し超えてもいいか」と考える人も増えるはずです。
本当に議論すべきは「第3号被保険者」という制度そのものかもしれない
第3号被保険者って何?
少し専門的な話になりますが、大切なので説明します。
「第3号被保険者」とは、会社員や公務員(第2号被保険者)に扶養されている配偶者が、自分では年金保険料を払わなくても、国民年金に加入している扱いになる制度のことです。
主に、専業主婦や扶養の範囲内で働くパートの方が対象です。
「130万円以内で働く」ことには、税金だけでなく、この第3号被保険者の資格を保つという意味もあります。
つまり、保険料を払わずに年金に入り続けるために、働く時間を抑えているという側面があります。
この制度が作られた時代背景
この制度が整備されたのは、多くの家庭で「夫が外で働き、妻が家事・子育てを担う」という形が一般的だった時代です。
専業主婦が多く、家庭を守ることに社会的な意味があった。
そのための経済的サポートとして、この制度には一定の役割がありました。
でも、今の社会にそのまま合っているか?
今は共働き世帯が増え、物価も上がり、女性の働き方も大きく変わりました。
こうした変化の中で、「第3号被保険者のままでいるために働く時間を抑える」という行動が、本人にとって本当に得なのかどうか、改めて考えるタイミングに来ていると感じます。
私が経営者と話していると、「うちの奥さんも、扶養から外れないように気をつけているみたい」という声をよく聞きます。
それが本人の意思であれば問題ありません。
でも、制度の仕組みがよくわからないまま、「なんとなく怖いから控えている」という方も少なくない印象です。
制度を見直すべきかどうか、政治や社会全体で議論すべき話であり、私が一人で答えを出せる話ではありません。
ただ、「反発があるから話し合わない」では前に進まない。
今の生活を守りながら、働きたい人が損を感じにくい仕組みを作る議論を、丁寧に続けることが必要だと思います。
まとめ:3つのポイント
1.所得税の壁が引き上げられても、社会保険の130万円の壁が残る限り、働き控えは続きやすいです。
2.働きたい人が働けないのは、本人の問題というより「制度の崖」の問題です。それは職場にとっても社会にとっても損失です。
3.根本には、第3号被保険者という制度をどう見直すかという議論があります。難しい話ですが、避け続けると、働く意欲が報われにくい仕組みが残ったままになります。
今日からできる一歩:10分でできる「自分の壁チェック」
難しく考えなくて大丈夫です。
まず、自分の数字を把握することから始めましょう。
ステップ1:今年の見込み年収を書く
給与明細やシフト表を見て、「このままいくと、年収はおよそいくらか」をざっくり計算します。
ステップ2:130万円まであといくらかを書く
130万円から見込み年収を引きます。
例:見込みが120万円なら、あと10万円。
ステップ3:壁を超えた場合のメリットを1つ書く
「手取りが減るかも」だけでなく、「将来の年金が増える可能性」「働く時間を気にしなくてよくなる」なども書いてみてください。
壁は、ただ怖がるものではありません。
でも、中身を知らないまま「なんとなく怖い」と思い続けると、損をするのは自分です。
まずは自分の数字を見えるようにする。
それだけで、落ち着いて考えられるようになります。
制度の境目は、人によって条件が違います。
「一般論」ではなく、「あなたの場合」を確認することが、一番の近道です。



